沿革


沿革

学び舎(写真)  懐かしの日々(写真)

昭和

22・5・24金沢高等師範学校に附属中学校(旧制)を付設し,旧山砲隊兵舎(野田町チ180番地)が校舎に充当された。(同師範学校内に置かれた特別科学学級[昭和20年1月発足]を引き継ぐ)
23・4・1新学制の実施に伴って,金沢高等師範学校に附属中学校(旧制)に加え,附属高等学校(新制)が付設された。
24・6・1金沢大学金沢高等師範学校附属高校並びに同附属中学校と校名が変更された。
25・12・7警察予備隊設置に伴って旧騎兵隊兵舎(野田町ヤ5番地)に移転した。
26・6・30第1回高校教育研究協議会を開催した。(テーマ「教科書のあり方」について)
27・3・31金沢大学金沢高等師範学校並びに附属中学校が閉校された。
27・4・1金沢大学教育学部附属高等学校と校名が変更された。
27・12・17校歌作詞到着(28・1・10 作曲到着)
37・5・15現校舎の竣工式を行った。(4・14 竣工)
38・6・1金沢市平和町1丁目1番15号と地番が変更された。
38・12・20武道場が竣工した。
41・2・1体育館の落成祝賀式を行った。(40・12・25 竣工)
42・7・15水泳プールが竣工した。
46・9・29第1回特別合同授業を開催した。(三好行雄東京大学助教授「芥川龍之介とその作品」)

平成

4・4・1主題「新教科:国際・文化科の導入を考慮した教育課程の検討」で文部省研究開発学校に指定された。
5・9・9~9・13現地学習の目的地を国内から国外(北京)に変更し実施した。
6・3・5家庭科男女共修のため調理室が竣工した。
9・11・3第1回最先端講座が開催された。
11・3・17最先端講座が名称を変えて,第1回同窓生による特別授業が開催された。
12・3・31水泳プールを解体廃棄した。
13・4・1学校評議員制を発足させた。教育後援会を設立した。
13・10・22武道場を改修した。
14・7・21~7・27現地学習の目的地を国外(シドニー)から国内に変更し実施した。
15・4・1文部科学省「学力向上フロンティアハイスクール事業」で研究開発校に指定された。
16・4・1国立大学法人金沢大学教育学部附属高等学校となった。
18・8・1校舎増築改修のため,旧金沢大学工学部に移転。
19・3・30校舎増改築完成により,平和町に移転。
19・10・27創立60周年記念式を挙行した。
20・4・1金沢大学の再編に伴い,校名が金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校に変更された。
~3・17現地学習の目的地を国内から国外(台湾)からに変更し実施した。
22・5・8有朋館(創立60周年記念会館)の竣工式を行った。

キーワードで読む金大附高史


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(1)特別科学学級


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(3)校名変更


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(2)松下村塾


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(4)校地移転

『附高五十年』(創立50周年記念誌 1998年6月30日発行)より引用

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学び舎





懐かしの日々



校歌

校歌『学びて去らばふり顧れ』

 「学びて去らばふり顧れ」。附属高校生が折にふれ時にふれ歌い継いできた校歌、そして卒業してもなお同窓会しめくくりに必ず歌われる校歌の一節である。
 この校歌の作詞者は言うまでもなく室生犀星である。室生犀星に校歌の作詞を依頼したのは、川西弘晃教頭であった。川西はその時の思い出を、『金大付高新聞』(第九四号)開校二十周年記念の特集「はたちの付高」で次のように語っている。
 「東京文京区駒込のお宅に犀星先生を尋ねたのは昭和二十七年晩秋の一日であった。生垣に囲まれた先生のお宅、門を入ると芝生が美しく、その中に飛び石伝いの道が通じている。その道が自然と曲って玄関へ出た。木造和風平屋建ての可成り年代を経た家である。かねてご連絡申し上げておいた訪問であったので、来意を告げると直ちに通された。部屋の中程には四角な炉が切られ、鉄瓶から静かに湯気が立っている。襖と紙障子に囲まれてガラスが全然使われていない。明治の住居に返ったような静けさである。数分後襖を開けて出てこられた先生は、和服をきちんと着こなされているが、丸刈りの頭で、農村育ちの私には田舎の村長さんに相似たようで親近感を覚えた。話題が金沢に入ると、先生の話ぶりはとつとつとではあるがしばし望郷の念にかられておられたようである。やがて私は、学校の性格と所在を申し上げ、厳しい真理探求の態度、あたたかい友情と謙虚な気持ち、師第の間の信頼感等を織り込んだ校歌の作詞についてお願いした。先生は校歌は純文学ではないのでむつかしいのだ、と言われたが、二カ月の期限を切って快く承諾して頂くことができた。」
 昭和二十八年(一九五三)の年が開けてまもなく、犀星から校歌の原稿が届けられた。詞に「疑問なり、希望なりあったら申し越されたい」とのことであった。川西は「謙虚」は音読したら字足らずになるのであるがどう読めばよいのかという質問を折り返した。
 「学びて去らばは、卒業の意味でわすれないように思ひだすよう。学び来たらばは、入学、『不変の自然』自然も変わらないといふ意味を入学者に加へて詠んだもの。とくに不変の自然といふ硬い文字をえらんだのは、いくらか額ぶち的な役割です。野田のみちみち謙虚の、は、けんきよですが、やはりさういふ硬さが必要な気がしたのです。この二文字は私にも不本意なものですが、これは適当にお考へになってお示しを願へればそれに改訂してもよいのです。
 一章  学校の所在、総則的な示訓、厳格と清浄
 二章  海との関係、生徒の和平
 三章  学びて去らば、及び次の『来たらば』の二行は教師から生徒への言葉。次の二行は登校の歌」
 これが犀星の回答の原文そのものである。なお、「謙虚」は改訂されなかったのは言うまでもない。
 作曲は、当時の音楽担当教官吉島喜三郎の提案により、同氏の恩師東京芸術大学教授下総皖一に依頼した。下総も「室生犀星さんの作詞なら」と快諾した。
 こうして格調高い校歌が出来あがったのである。
「金沢大学教育学部附属高校『附高五十年』」より引用